中世ヨーロッパにおいて、教会は人々の信仰を支えるだけでなく、政治や社会、文化にも大きな影響力を持つ存在でした。
一方で、キリスト教の普及に伴い、古代ギリシャ・ローマ時代の宗教や思想、文化は次第に衰退し、中世初期のヨーロッパは長く停滞の時代を迎えます。
さらに、教会の権力と財産が増大するにつれて、本来の宗教的な役割から離れた腐敗も目立つようになりました。
この記事では、中世ヨーロッパにおいて古代ギリシャ・ローマ文化が衰退した理由、そしてローマ・カトリック教会が繁栄した背景と、その一方で進んだ腐敗の実態について、わかりやすく解説します。
中世のはじめに、著しい文化水準の没落と停滞が起こりました。初期のキリスト教会が、ギリシア・ローマ文化を排斥したためです。
自然科学などを追いやり、神学を最高の学問としたのです。これにより、古代ギリシア・ローマの高度な文化や教育体制も崩壊し、多くの知識が失われました。
西ローマ帝国の滅亡の後、ヨーロッパ世界はすっかりと後進地域になってしまったのです。
また学術的・芸術的な活動が衰退し、教育機関も縮小しました。この文化の断絶は、西洋社会の進歩を大きく遅らせるものでした。
例えば、イギリスはブリタニアと呼ばれるローマ帝国領でしたが、そこに築かれたローマ文明は、中世になると跡形もなく消えてしまいました。
中世の初期にブリテン島にやって来たアングロ・サクソン人たちは、古代ローマの残した巨大で立派な建造物を見て、超人的な力を持つ巨人たちがつくったものと考えたそうです。
この様に中世の初期において、著しい文化水準の停滞が発生したのでした。そして、注目に値する芸術や文化などは、ほとんど見られなくなります。
昔から中世のことを「暗黒時代」と呼ぶことがあります。先述の通り、中世とは空白期間であり、何の重要性もない時代だと考えられていました。
決して一千年におよぶ中世全体が、暗黒時代だった訳ではありません。しかしながら、中世の初期における文化水準の没落と停滞は、暗黒時代と言ってもいい期間だったかもしれません。
「贖宥状の販売」
教皇レオ10世が贖宥状を発行している場面。
ローマ・カトリック教会は、中世において絶大な権力を手にしました。
教会の指導者たちは、世俗的な権力と密接に結びついていました。教会の高位聖職者たちは、王や貴族と同様に領地や政治的権力を持ち、これにより権力や富の追求が優先されていきます。
教皇領からの収入や十分の一税、教皇税などによって莫大な富を蓄えると、キリスト教世界の権力の頂点に君臨していました。
教会は巨大な聖職者組織となり、そのきらびやかさは神の威光の反映とされました。そして豪華な大聖堂や修道院などが、ヨーロッパ各地に建てられていきました。
しかし、それらは寄付や税金などから蓄えた富で、信者たちの献身と犠牲のもとに実現されていました。
そうした教会の堕落を象徴するのが贖宥状(免罪符)でした。罪を犯した者が購入することで、罪が許されるとしたものです。
これらの金銭を目的とするキリスト教会の行いにより、本来あるべき信仰の本質が歪曲されました。
もともとキリスト教は、清貧を理想とし、現世における物質的繁栄を望まない教えです。ローマ・カトリック教会のそもそもの目的も、キリスト教を布教することだったはずです。
それがいつしか、組織が巨大化し、絶大な力を握るようになり、世俗的な富や権力にまみれていったのでした。
こうしたローマ・カトリック教会の「腐敗と堕落」は、次第に批判を集める様になっていきます。
それは富や権力への欲という単純なものだけでなく、あまりに組織が巨大化したことによる弊害もあった様です。
そして教会への批判は、宗教改革やルネサンスといった運動につながっていきます。こうしてローマ・カトリック教会の権力は、中世が終わりに差し掛かるにつれて弱まっていくことになったのでした。
しかしながら、ヨーロッパ世界の中心には、依然としてキリスト教への信仰がありました。
いかに教会が腐敗しようとも、キリスト教自体が別の信仰体系にとって代わられることはありませんでした。
あくまで批判を集めたのは教会であり、キリスト教への信仰そのものが無くなっていった訳ではありません。
やはりどこまで行っても、ヨーロッパ社会というのはキリスト教を信仰する共同体であり、それが主要なアイデンティティなのです。