騎士修道会とは?|聖ヨハネ騎士団・テンプル騎士団・ドイツ騎士団

中世ヨーロッパにおいて「騎士修道会」と呼ばれる組織が誕生しました。
その活動は十字軍時代を象徴する存在であり、今日でも数多くの歴史書や小説、映画の題材となっています。
この記事では、騎士修道会の誕生の背景や役割、特徴についてわかりやすく解説しています。
さらに、代表的な騎士修道会であるテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団を取り上げ、それぞれ紹介します。
騎士修道会
十字軍の運動が大きく盛り上がりを見せる中で、独特の軍事集団が出来上がります。それが騎士修道会です。
騎士修道会とは、主にキリスト教の巡礼の保護などを目的とした、武力を持った修道会のことです。
古来からの伝統によって、キリスト教の巡礼者たちは武器を携行しませんでした。そのため彼らの保護は重要な課題でした。
そして12世紀に入ると、騎士修道会が設立されます。修道会の戒律にうたわれた高い精神性と、騎士団が理想とする騎士道精神とが、一つに結ばれることになったのでした。
暴力や流血を否定する聖職者と、戦いをなりわいにする騎士では、相反する矛盾があるようにも思えます。しかしながら、価値ある大義のために遂行される限りにおいては、戦う事は名誉であるとみなされたのでした。
そして騎士修道会の戦士たちは、聖地に永住する誓いを立てていました。そのため、遠征が終われば帰国する通常の兵士と違って、安定した軍事力を提供できました。
また、騎士でありながら修道士でもあるそのメンバーたちは、新しい時代のエリート層とも言える人々でした。
それから騎士修道会は、ヨーロッパ全土で高い信頼を得る様になっていきます。多くの領地を寄進されて、非常に裕福になった修道会も少なくありません。
会員は騎士以上の階層から採用され、修道会則の戒律に服しました。12世紀末の最盛期には、全会員は数十万人にも達していました。
代表的なものでは、聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団などがあります。これらは三大騎士修道会と呼ばれます。
聖ヨハネ騎士団
第1回十字軍で、傷病者の救護を目的に結成された騎士修道会が「聖ヨハネ騎士団」です。
南フランスの修道士ジェラールが、エルサレムに新しい病院を設立させ、これを教皇が正式に認可して修道会となりました。
第2回十字軍以来、テンプル騎士修道会とその功を競いながら、多くの戦績をあげました。
また、クラック・デ・シュヴァリエという巨大な城塞を築き、守備隊を置くと、強力な辺境防衛軍となりました。
十字軍末期にはロードス島を占領して本拠を移し、ロードス騎士修道会と改称して、近代までオスマン・トルコ軍と戦いました。
さらに1530年以来マルタ島に移り、1798年まで本拠として活動します。1834年以降はローマを本拠地として、国際慈善活動を行っています。
テンプル騎士団
巡礼の警護を目的にに結成されたのが「テンプル騎士団」です。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦士たち」と言います。
第1回十字軍遠征後の1118年、シャンパーニュの騎士ユーグ・ド・パイヤンら9人の騎士によって創設されました。
エルサレム王国のボードワン2世が、かつてソロモン王のエルサレム神殿(テンプル)があった「神殿の丘」を寄宿地として与えたことから「テンプル騎士団」とよばれるようになります。
その後、1128年に教皇から騎土修道会としての認可を得ると、巡礼者を保護する騎士でありながら修道士である彼らは、騎士道精神の理想とみなされていく様になります。
テンプル騎士団は、エルサレムのソロモン神殿跡を本拠に、中近東各地に城塞を築きました。1291年のアッカ陥落によってキプロス島に退く敗戦時まで、十字軍の主力として活躍しました。
またテンプル騎士団は、赤い十字を描いた特徴的な白い衣装をまといました。
そして、テンプル騎士団の活動が知られてゆくにつれて、ヨーロッパ中から多大な寄付が集まっていきます。
土地を譲られることも多く、テンプル騎士団は荘園経営のためヨーロッパ各地に拠点を構えるようになりました。
そして、そのネットワークを利用した金融業を展開・発展させると、莫大な富を築きました。テンプル騎士団の行った金融業は、為替手形の発行による資金管理であり、いわば銀行業でした。
こうしてテンプル騎士団は、12世紀中ごろには、十字軍遠征の資金管理やフランスの国庫を任されるなど、軍事力をもつ巨大金融資本へと成長していきます。
そして、あまりに莫大な富と権力を持つようになったため、フランス王フィリップ4世に弾圧され、1312年に解散したのでした。
ドイツ騎士団
第3回十字軍において聖地の防衛を目的に、1190年に結成されたのが「ドイツ騎士団」です。チュートン騎士団とも呼ばれます。
リューベックなどの巡礼病院を起源とし、中近東で十字軍に参加した後、開拓につとめました。
ドイツ騎士団は、第4代総長ヘルマン・フォン・ザルツァのもとで、大きく発展していきます。ヘルマンは、神聖ローマ帝国とローマ教皇の両方と繋がりを持ち、プロイセンの基礎を築きました。
そしてドイツ騎士団は、東方のバルト海地方やスラブ人の定住地へ植民するにあたって、その先鋒を務めました。
このドイツ人の東方進出は、大規模な民族移動を引き起こします。入植者たちは、何世紀にもわたって、森を切り開いては、農場や村や町や、修道院や教会をつくっていきました。
ドイツ騎士団領は、その後プロイセン公国となります。また、騎士団自体は15世紀に衰退し、現在はドイツやオーストリアで医療や慈善活動を行う団体となっています。



































