『鬼滅の刃』の映画はご覧になりましたか?
劇場版『鬼滅の刃』無限列車編 。
いやー、マジで半端なかったですこの作品は。
歴史的な空前の大ヒットも頷けます。素晴らしい興奮と感動をもらいました。
そして同時に、『鬼滅の刃』がなぜここまで人気なのか?
その要因として以前から考えていたことが確信に変わりました。
それは、この社会現象は自己責任社会に対するアンチテーゼだということです。
至る所に、自己責任論や権力者に対する批判が読み取れるんです。また、人を見捨てない姿勢への熱狂と支持もあると思います。
そこに人々が深く共感したんじゃないかと。
つまり、現状の行き過ぎた自己責任社会への不満や反発ですね。現実の社会もこうあって欲しいという願いですね。
そういった人々の想いが、この作品の凄まじい人気に繋がっていると感じました。
そんな感じの徹底レビュー&考察になります。
全集中しながら考察してみました。
『鬼滅の刃』は自己責任論を真っ向から否定する!
劇場版『鬼滅の刃』無限列車編 では、「弱者」「強者」という概念がとてもハッキリと描かれます。
そして、対立する2つの価値観が描かれます。
そこで描かれているものは、紛れもなく自己責任論への批判だと感じました。
現実社会において嫌というほど極まっている自己責任論です。
日本の社会では権力者が自己責任論を語り、弱者にマウントをし続けていますよね。
そして、『鬼滅の刃』では自己責任論を真っ向から否定するんです。
これが多くの人々の胸を打ち、共感を呼んでいる大きな要因だと思います。
自己責任の概念はどこでもありますが、弱者を標的にする「自己責任論」は日本にしかありません。
強者による自己責任論の否定!
ここで重要なポイントは、『鬼滅の刃』では強者が自己責任論を真っ向から否定するところです。
人を見捨てない、切り捨てない。
まして自己責任論を押し付けることなど絶対にしません。
そういう強者がメインキャラクターとして描かれているんです。
これは、今の日本社会における自己責任論への批判である、その様に捉えることが出来ると思うんですね。
日本社会では権力者ほど自己責任論をよく語ります。
強者による自己責任論やマウントは間違っている。
その本来あるべき模範的な姿とは何か?
その様なメッセージが込められている様に感じました。
人々の自己責任社会への不満と反発!
『鬼滅の刃』は空前の大ヒットを飛ばしました。
これは、人々の自己責任論に対する、強烈な反発やアンチテーゼに僕には映ったんです。
つまり、現実の自己責任社会がもう限界だということです。
権力者を中心に自己責任論を押し付けてくる今の社会がです。
まず、権力者が弱者や困窮者をまったく助けません。
むしろ、真っ先に見捨てて切り捨てます。
そのくせ、自身には自己責任論を絶対にあてはめません。説明責任を果たしません。
嘘やデタラメや誤魔化しばかりです。
あまりに馬鹿馬鹿しく、不公平極まりないシロモノです。
そんな中で、自己責任論を批判する作品が歴史的な大ヒットを生み出しました。
これは日本社会にとっても、重要なポイントではないかと思うんです。
「今の自己責任論を基本にした社会はもう嫌だ」
そういう人々の想いや願いが、この作品のヒットを生み出したのではないでしょうか?
自己責任論は弱者や困窮者を標的とするのが特徴です。非常に歪んでいて醜悪です。
『鬼滅の刃』で描かれた相反する価値観の激突!
劇場版『鬼滅の刃』無限列車編では、善と悪の対立よりも、相反する価値観の対立が際立っていました。
「何度でも言おう。君と俺とでは価値基準が違う」
煉獄杏寿郎
つまり、メインキャラクター同士の考え方のぶつかり合いです。
鬼殺隊の柱である煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)、
十二鬼月の上弦の参である猗窩座(あかざ)、
この二人の激突です。
単純に見れば善と悪、敵と味方の戦いです。
しかしこの両者のバトルは、怒りや憎しみといった類いではありません。
それぞれが持つ、価値観のぶつかり合いなんです。
弱者が大嫌いの猗窩座!
猗窩座は弱者を徹底的に忌み嫌い、見下し軽蔑しています。
そして強者に対してのみ、敬意を持ち合わせます。
「弱者には虫唾が走る!反吐が出る!」
猗窩座
要は、力がその価値基準のすべてです。
なので、猗窩座にとって弱者は無価値です。強者の価値だけを認めます。
バリバリの自己責任論という訳ですね。
「金がすべて」「貧乏人はコスト」と考える、自己責任論と瓜二つではないでしょうか?
猗窩座は人間すべてを弱者とみなしています。
老いていずれ死ぬ、だから人間は弱い、という訳です。
また猗窩座の目的は、人を殺すことよりも強者との戦闘にあります。強者同士による高め合いを求めているんです。
そして煉獄さんに対して鬼になることを勧めます。
人を絶対に見捨てない煉獄さん!
煉獄さんの価値観は猗窩座と正反対です。
ー人は弱くて儚い、老いていずれ死ぬ。だからこそ尊いのだと言い切ります。
どんなに弱くても、みな尊いのです。
「俺は如何なる理由があろうとも鬼にならない!」
煉獄杏寿郎
「老いることも、死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ!」
「老いるからこそ、死ぬからこそ、たまらなく愛しく尊いのだ!」
弱者であろうと何だろうと人は尊い。だからこそ、力を持っている自分はそれを守るのが務めである。
それが煉獄さんの価値観であり信念です。
まさに、自己責任論と対を成す価値観だと言えます。
そして、猗窩座の価値観と見事に対比されています。
対照的な2人の強者の正面衝突!
煉獄さんと猗窩座の戦いは、対照的な2人の強者の戦いです。
そして、相反する価値観のぶつかり合いです。
「人間という弱者を捨て鬼になれ」と言う猗窩座と、
「何があろと鬼にはならない」と言う煉獄さんの対立です。
そしてこれは「自己責任論の強者vsそれを否定する強者」の構図になっているんです。
鬼になれば、より強い力が手に入ります。しかし、人間を食料として食らう必要があります。
他者を踏み台に、自分の糧として犠牲にする訳です。
これを肯定するのが猗窩座、否定するのが煉獄さんです。対立する価値観の争いです。
また、猗窩座は鬼では珍しくシンプルな近接格闘のスタイルで、ゴリゴリの戦闘タイプです。
なので、二人の戦いは真っ向からの正面衝突になります。
それ故に、価値観の対立がより鮮明に浮かび上がっていて見事です。
それにしても、『鬼滅の刃』のバトルシーンは、作画のクオリティが半端ないです。
なぜ煉獄さんのカッコよさは人々の胸を打つのか?
この映画の最大の見せ場は、主人公の炭治郎よりも、柱である煉獄さんの戦いです。
その戦いの中で、煉獄さんが見せる気高き信念が、人々の心に深く刺さるんですね。
「ここにいる者は誰も死なせない!」
煉獄杏寿郎
人を見捨てない。そして、己のすべてをかけて守ろうする。
そうした誇り高い精神が人々の胸を打ち、深い感動や共感を生んでいるんだと思います。
煉獄さんが示した力を持つ者のあるべき姿!
ここで示されているのは、「力を持つ者はどうあるべきか」ということです。
日本の現実社会における、権力者の姿勢はどうでしょうか?
弱者や困窮者をまったく助けません。
むしろ、真っ先に見捨てて切り捨てます。そして、自己責任論で常にマウントしてきます。
果たしてそれが、力を持つ者のあるべき姿でしょうか?
一方で、煉獄さんはどうでしょうか?
地位も実力もある紛れもない強者でありながら、人に自己責任を押し付けることはありません。
逆に、責任を負っているのは強者の自分であると認識しているんです。
つまり、強き者は弱き者を守るべきだ、という考え方です。
それが、力を持つ者の務めであるという訳です。そして、自らの命に変えてもその場の人々を守ろうとします。
つまり、煉獄さんが示したものは「あるべき強者の姿勢」なんです。
力を持つ者は本来どう振舞うべきかということです。
責任とは人に押し付けるものではなく自らに課すものである、そう感じさせます。
「煉獄さんの方がずっと凄いんだ!強いんだ!」
炭治郎が猗窩座に向かって放つセリフです。映画を見た誰もが共感したことでしょう。
煉獄さんの母の教えは痛烈な権力者への批判!
このような煉獄さんの気高き信念は、どこから来たのでしょうか?
それは母親からの教えでした。
その教えを煉獄さんは貫き通しているわけです。
そしてこの教えが、とても痛烈な権力者への批判になっているんです。
生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。
天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。
責任を持って果たさなければならない使命なのです。
どうでしょうか?
今の権力者に対して言っているとしか思えません。
腐敗や自己責任論にまみれた、現実の権力者たちに対してです。
つまり、
権力を持つ者はそれを悪いことに使ってはいけない。権力は人々を守るために使わなければいけない。
ということを示しているんです。
権力を持つものが弱者を踏み付ける自己責任論など語ってはいけない。
そう言っている様に思えてなりません。
この教えを貫く煉獄さんは、まさに自己責任社会を批判する象徴な訳です。
自己責任社会を象徴する鬼という存在
『鬼滅の刃』では鬼という存在が描かれます。
鬼は人間よりも遥かに強大な力を持っています。そして、人間を食料としています。
また鬼はみんな元人間です。
鬼たちは紛れもなく、自己責任社会を象徴する存在だと思います。
力がすべて、弱いものは無価値、競争に生き残れない者は淘汰されます。
強者によるバリバリの自己責任社会ですね。
実力主義、能力主義、競争主義です。
仲間意識や助け合いなど存在しません。己がすべて、生き残りがすべてです。
平成から始まった日本の自己責任社会と、まさに瓜二つではないでしょうか?
まさに、新自由主義による競争社会そのものです。
そして鬼たちのボスである鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)は、まさに自己責任論の化身・権化です。
パワハラやマウントの総合商社です。
そんな奴がボスなので、鬼たちの間では自己責任論による弱肉強食が基本原理なんですね。
鬼だろうが人間だろうが、弱者は相手にされません。ただ一方的に蹂躙されるだけです。
日本における自己責任社会と鬼たちは本当によく似ているんです。
異常で歪んでいるところもそっくりです。
そして、自己責任社会はとても破滅的です。自らの首を自らで締めているんです。
鬼たちも自己責任社会も、行きつく先は破滅しかありません。
映画のシーンではないですが、炭治郎が死んだ鬼を見て「救いがない」と言う場面があります。
これもまさに、現実の自己責任社会に対して言っているんではないでしょうか?
『鬼滅の刃』の全体を通して一貫する「人に対する親切や優しさ」
映画だけでなく『鬼滅の刃』という作品全体を通して感じるテーマがあります。
それは「人に対する親切や優しさ」です。
また、「思いやりや助け合い」です。
自己責任社会によって、奪われ続けている当たり前のものです。
つまり『鬼滅の刃』は、本来社会の基本にあるべき価値観を示したのではないでしょうか?
主人公である炭治郎は、どんな時でも人に対する親切や優しさを忘れません。
鬼に対してすら同情心を持ち合わせます。鬼は元は人間だった、化け物なんかじゃない、悲しい哀れな生き物なんだと。
なので、この作品の人気の高まりは、個人的にとても嬉しいんです。子どもだけでなく、大人も含め多くの人がこの作品を支持しています。
それはつまり、この作品で示された価値観に多くの人が共感しているということです。
このままの自己責任社会でいいのか?本当に大切なことを忘れていないか?
『鬼滅の刃』はそれを投げかけている気がしてなりません。
そして多くの人の心に、それは届いているのではないかと思います。
まとめ
『鬼滅の刃』のヒットの要因は、今の世相と密接に関わっていると思います。
もちろん、作品自体の素晴らしいクオリティもあります。
でもそれだけではなく、今を生きる人々の想いや願いと非常にマッチしたのだと思います。
すなわち、自己責任社会に対するアンチテーゼ。
そして、今の世の中に欠けている本来あるべき価値観への賞賛です。
それは、思いやりであり優しさです。誰も見捨てないという姿勢です。
煉獄さんが示してくれたものです。
人を見捨てない姿勢こそ権力者のあるべき姿である。
自己責任論を捨て助け合いの精神を取り戻す。
『鬼滅の刃』で示されたのは、そういったものだと強く感じました。